あれから10年…。2010年頃だったと思う。それは東京での出来事。場所は東京都市ヶ谷にある牛込中央通りの坂の下、外堀通りだったかな。
俺がアイツと同期入社した会社を辞めて、ちょうど10年。埼玉県の会社に勤めてたから、こんな東京のど真ん中でアイツとすれ違うなんて、なんて奇遇なんだって正直思った。
「沖野っ!」
思わず声が出た。アイツとすれ違いざまに声をかけたんだ。別に仲良くも無かったし、どちらかといえば敬遠していた存在だったけど。
「おー!HIRO、久しぶりーっ!」
アイツの反応は早く、そして俺よりも声のトーンが1オクターブ高かった。そんなアイツの人なつっこさに驚いた。
俺は大卒で入社した会社、沖野アタルとしのぎを削った会社は3年勤めて辞めた。2000年ころだったかな、当時流行仕掛けていたIT企業に、どうしても勤めたかったからだ。アパレル通販会社から心機一転、全く業種が違うIT業界の雄、ソフトウェアメーカーに転職した。
この話は別の機会に詳しく話そうと思うけど、2社目の会社は7年半勤めて辞めた。転職してわかった事があった。どんな会社に行っても、自分に合った環境はないということ。ごくごく当たり前の話なんだけどね。
どこに居ても、仕事が終わったら酒を飲みながら、文句ばっかり言う人をたくさん見てきた。とにかく自分はそうなりたくなかたった。周りに流されたくなかったんだ。自分はもうこれ以上無理だなと思った。
これって、中学生ヤンキーと同じ思考回路なのかもしれない。ただただ、学校の校則や大人が決めたレールを走りたくない、反発したい、世間一般の社会人生活に反発したかった、だけなんだ、きっと。だから思わず尾崎豊の「15の夜」を歌いたくなる。
2008年春ころから、真剣に大企業を辞めて起業する道を考え始めた。当時はリーマンショックやなんやらで世界景気は落ち込んでいた。起業したい!なんて10人に話すと10人全員が反対した。まぁ、当たり前だと思う。ただ、嫁さんと父親だけは反対しなかった。だから直感で大丈夫やと思った。
うちの親父は決して仕事人間なんかじゃない、本当に遊び好きな親父。そんな親父が真剣に俺を心配して、一言だけ重要なアドバイスをくれた。
「ええか、とにかく商品の在庫だけは持つな!」
と。これについては100%激しく同意。商品の仕入れなんて絶対しない、と心に誓った。親父はちょうど2年前、ガンで死んでしまったけど。今思えば、きっと親父の経験を踏まえての話だったと思った。ビジネスの本質は時代なんて関係ないって、思った。
さぁさぁ、話を2010年市ヶ谷の牛込中央通りに戻そう。
そんなこんなで、起業して半年くらい過ぎた頃だろうか。アイツと市ヶ谷の牛込中央通りの坂の下、外堀通り付近で再会したのは。実に10年ぶりの再会。
この10年間お互い違う道を歩いてきたけど、今同じ道を少しだけ一緒に歩き始めた。
つづく